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ブックガイド1 コンテンポラリー・アート・セオリー


コンテンポラリーアートセオリー

コンテンポラリー・アート・セオリー(イオスアートブックス)2013年 筒井宏樹 編著 「現代美術」というものの最も基本的かつ忘れられやすい側面は、それが近代化を終えたと される社会において、国境を超えておおよそ共通のテーブル上で議論される(筈)のものだ、というところです。しかし実際にはそのヘゲモニーは欧米の、しかも白人男性に担われている。いずれにせよ、現在、そのような「現代美術」において、どのような議論がなされているのか。「キュレーション」「制度批判」「関係性の美学とその後」「ドキュメント」「ポスト=メディウム」「パフォーマンス/パフォーマティヴィティ」といったキーワードから、海外の主要なタームをコンパクトに紹介した本です。 タイトルに「セオリー」とあるように、表面的な流行の確認ではなくあくまで理論的な水準で「共通のテーブル」を設置すべきである、という野心的な試みをもった書物といえます。同時に、海外でも美術について語り、活動し、制作をしていくならば、最低限ここに書かれていることだけは承知しておかなければ、やはり「共通のテーブル」を囲むのは難しいという意味で極めて実践的な書物ともいえましょう。しかし、基本的にはあくまで、同時代における美術の基本的課題について批判的(批評的)に捉えるためのステップとして読まれるべきものです。 「エピクロスの空き地」展に関連して重要なのが、星野太著「ブリオー・ランシエール論争を読む」と沢山遼著「ポスト=メディウム・コンディションとは何か?」の二編です。前者はニコラ・ブリオーが1998年に著した「関係性の美学」に対する反応と議論を、主にジャック・ランシエールとの議論に絞って簡潔にまとめたものです。ことに終盤の、この議論に見られる可能性を、ブリオーが援用したアルチュセールの「出会いの唯物論の地下水脈」に見るという指摘は、ブリオーの議論を超えて興味深いものです。また、そこで指摘された従来のメディウム論を批判的に乗り越えるという意味でも、後者のポスト=メディウムという議論は外せないでしょう。ロザリンド・クラウスが展開するヴィデオ論からカヴェルを経由してモリスのアンチ・フォームの概念へと補助線を引いてゆく展開はスリリングです。 「エピクロスの空き地」展の関連講義では、アルチュセールの「出会いの唯物論の地下水脈」についての講義に続き、ポスト=メディウム論へと進みますが、そのための確認をしておくならば、メディウムを単なる物理実態ではなく、シュルレアリスムにもつながる自己差延化の契機として捉えられる旨書かれている点は見逃せません。ポスト=メディウムがいわば「メディウムの発見」としてあるならば、言うまでもなくクラウスやカヴェルが取り上げたヴィデオや映画のみならず、従来の絵画あるいは彫刻といったものすら新しい角度で捉えられる。確かにヴィデオや映画の技術的基盤にポスト=メディウムの特徴的な徴があるのは確かですが、かといってポスト・メディウム論が皮相な範囲で「映像論の手法」としてしか捉えられないならば、それは議論の矮小化でしょう。クラウスのいうメディウムの駆動性=ルールこそが焦点であり、であるならばそのような駆動性を単に映像メディアにだけ見るのは、むしろ映像というメディウムの実体化となってしまいます。 すでに入手が難しくなっている同書ですが、明快なテキスト群からなり、携帯性にも優れていて「どこでもコンテンポラリー・アート・セオリー」といえるものになっています。

*2016/12/18時点で、NADiff online にて取扱いあり。

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