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最終講義に向けて_参考文献


「無」から音楽をたちあげることはどのように可能なのか。三松幸雄氏による「ex nihilo-ヤニス・クセナキスと芸術の形而上学 序説」(『ART CRITIQUE n.04』所収、BLUE ART、2014年)は、クセナキスが生涯に渡って保持したこの命題を、緊密な文章によって追跡します。「絶対的に新しい出来事」、社会文化的現象、分脈の変化の中で消え去ってしまうものとは異なる知性=宇宙の起源につながりうる「冷たい火」の結晶としての「超音楽」。言うまでもなく、「無」とは、何もない状態であり、そこから音が「ある」状態への移行は二律背反に見えます。この困難を、クセナキスはオルフェウスの始原的問い→ピュタゴラスの問いの追創設、パルメニデスの決定論の哲学=無からの生滅をドクサとして退ける地点を通過しながら、ついにエピクロスによるクリナメン、「不確定な瞬間における誕生の必然性」という転回を経ることによってオーバーしてゆきます。 プラトンによる「同じものそれ自体」、可能体の次元での「それ自身の他者」において、決定性と非決定性の間を揺れ動く運動が導かれます。「非存在から存在へと移り行くもの」の原因としての「制作」。無、「真空の宇宙のなかで。わずかにさざめく波動」から、エピクロス的偶然が「制作」を可能にしてゆく。エピクロス自身は「無から有は生じない」と書き付けますが、むしろクセナキスの示す「さざめく波動」としての「無」こそが、エピクロス/ルクレティウスによるクリナメンから逆算的に導かれる。このダイナミックかつ繊細なプロセスは、三松氏のテキストの抑制的な筆致の中にエモーショナルな官能性として響いています。厳密な思考の追跡が、大胆なジャンプを可能にする、そこに垂直な差異を希求してゆく三松幸雄氏の志向性を見ることは難しくないでしょう。 実際、美術に関わるものにとって三松氏の仕事の中でもっとも身近なものはバーネット・ニューマンの論集『崇高はいま』(東京パブリッシングハウス、2012年)の翻訳、およびミホ・ミュージアムで行われた展覧会「バーネット・ニューマン 十字架の道行」のカタログにおけるニューマンの言葉の選定・翻訳などだと思われます。ニューマンを見れば三松氏と「垂直性」の関係を見ることは、自明なように思われます。事実、ニューマンにおいても始原あるいは起源性、またそこから開始される新しい制作は重要な主題であり続けました。 「…起源の人の務めに関わり/その創造的な状態に到達しようと試みているのは/詩人と芸術家である」(「バーネット・ニューマン テクスト抄」三松幸雄訳、『バーネット・ニューマン 十字架の道行き』56頁、ミホミュージアム、2015年)。 しかし、ここで三松氏が注目する垂直性は、ニューマンのジップが一見直接的にしめすかのようにみえるそれとは異なります(ニューマンのジップも、その内実はジッパーのように別れたものを閉じる動きを含むことからわかるように、決して単純なものではありませんが)。『螺旋・生・時間 ― 河野道代『spira mirabilis』論』(via wwalnuts、2011年)においては、詩を通じてベルヌーイによる「驚異ノ螺旋」が書き記されます。この複雑性、非存在から存在へと移り行く」さざ波、「無」と「ある」を行きつ戻りつする運動から立ち上がる螺旋の垂直性が、三松氏の関心の向かう先にあるものかもしれません。

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