高橋悠治の音楽、いくつかの事例――ディスクガイド+
『フーガの[電子]技法――《フーガの技法》BWV1080より7曲』[録音:1975年]([復刻版]DENON, 2006年) 永瀬 コンサートに行くっていうあの形式が僕はすごく苦手で、録音されたものとかはよく聴くんですけど、だから高橋悠治さんのコンサートにはまだ行ったことがないんです。 三松 そういえば以前、シンセサイザーでバッハの《フーガの技法》を演奏したアルバムについて、どこかでなにか書いてましたよね。 永瀬 あの作品は、なんというか、いろんなところがずれてたり、突拍子もない響きもあったりして、これは「悪魔的な失敗作」なんじゃないかと思った。最後まで聴き通せないんですよ。すごい変わった作品だと思うんですけど、あれはどうなってるんですか。 高橋 当時の機材はアナログでね、だから長い時間演奏してると、少しずつ音の高さが下がってきたりする。二台のシンセサイザーを使って録音したんだけど、たしかMoogのと、あとはなんだったかな、だからやってるうちに、いろんなところがずれてくる。音の出だしとかも、ぴったり合うとはかぎらないしね。でも、あの時代の技術だと、そういうのを微調整でなおしたりとかはできないのね。で、そういう部分は、もうどうにもしようがないので、そのままにしておいて、だからああいう風になった。 永瀬 そのまま放置しちゃったんですね(笑)。ずっと聴いてると、もう本当にグラグラとめまいがしてくる。 三松 少々のほころびとかは、あえて修正などしないっていうのは、楽譜にしても、「清書」の仕上げじゃなくてラフな草稿に近いかたちで公開されてたりするし、水牛での文章の編集にしても、そういうところがある。完成度を高めて閉じてしまうんじゃなくて、外気が入ってくる風穴を残しておくというか。 高橋 バッハのあの作品は、最後が「未完のフーガ」っていうので、途中で終わってるんだけど、その自筆の楽譜には、作曲者がそこで亡くなったことを、息子のエマヌエル・バッハが書き込んでて、だからその部分を朗読してくれるようひとに頼んだら、立派な感じに読んでくれた。でも、それを電子的に変調したのを録音に使ったんだけど、そのひとはいやがってた。 ――7月1日 「エピクロスの空き地」展 最終講義の終了後、上野のレストラン「ライオン」にて (文責:三松)