第3回講義に向けて_参考文献その3
郡司ペギオ幸夫「群れは意識をもつ 」(PHPサイエンス・ワールド新書、2014年) 郡司ペギオ幸夫氏による講義《因果反転を可能とする地平》 http://mniizeki.wixsite.com/epicurus/event の参考文献第3弾です。 一般に集団性を形成するもの(例えば「秩序」)と、個の自由な行動は相反すると理解されます。個と個が互いに「見る/見られる」関係に入り、互いの自由を「調整」し、メンバーがおおよそ同じ方向を向くことで集団がなりたつとしても、そこで個性はゆらぎの範囲を出ません(揺らぎの大きさは相対的な問題です)。そうではなく、個の自由な行動が結果的にある社会性を成立させる事態は考えられないでしょうか。能動的に動くものは自己のみを考え、受動的に動くものは周囲を考えている。それが「同時」にあるのではないとしたら? それぞれが異なる時間を生き、時間を同期させないことで能動者が受動性を形成し(受動的能動)、能動者が受動性を発揮する(能動的受動)。このとき、個の自由な動きが展開されながら、ある「群れ」の輪郭が形成されていきます。 きっかけは、我々が参加する展覧会の枠組みへの素朴な疑問でした。「グループ展」の「グループ」とはなんだろう?ここには、昨今の美術の世界で主題となることの多い「集団性」、アーティスト・コレクティブへの問いと構造的に通じる問題があります。「エピクロスの空き地」は、企画が始まるまで相互に強い人間関係がなく(まったく初対面のメンバーが多い)、また企画進行中も強固なつながりを持つことがありません(メンバーの一人は企画進行中、そもそも海外にいました)。企画テーマや勉強会への参加・コミットの強弱もまったく「同期」していません。そのような作家のグループが、しかしそのような個別性の結果としてある知性を発揮しないか。また、これは展覧会にも深くつながります。個々に勝手に振舞う作品の集まりが、その振る舞いにおいて、個別にもつ意識とは別の「意識」を発生させないか? 作品とは一般にモノですが、その振る舞いが生み出すコトに注目したとき、そしてそれが「グループ」として現れたとき、何が起きるのか。 水に入ることを嫌うミナミコメツキガニの群れの中の一匹が、なぜか急に渡河を開始する様子をこの本は解析してゆきます。ムクドリの群れが隣り合う相互の関係を調整しつつ形成されるといった「ボイド」的モデルでは排除された、集団形成の矛盾こそに着目し、相互の非同期こそが受動的能動者、能動的受動者を形成してゆく様を緻密に描写していく様は驚異的です。ダチョウ倶楽部の「俺がやる」「いや俺がやる」「どうぞどうぞ」の力学-理論(熱湯入浴コントのモデル化)。ボイドモデルの崩壊の引き金になる不安定なゆらぎを、このモデルは逆に利用します。 群れと意識の両方においてモノとコトの関係を見出す「スウォーム・インテリジェンス」(群れの知性)からは、生み出されるコトの価値評価という想定外の出来事を絶えず繰り込んでゆく動的な生成過程が見出されます。可能なものと実現されるものは固有の時間を作り出しますが、ある個体において原因から結果が生まれるとき、別の個体にとっては結果から可能性が見出されます。「選択(可能から実現へ)と予期(実現から可能へ)が、並列的に進行する多数の個からなるシステムでは、個と社会、モノとコトは対立概念とならない(本書270頁)。」意識はモノではなく、経験されるモノ・コトスペクトラムであるという本書末尾にたどり着くとき、読者には自分個人の意識も「群れの意識」と捉えられることに想像が働くのではないでしょうか。