市田良彦氏《ルイ・アルチュセール「偶然性唯物論」》講義 概要
雨が降っている。
願わくば、この書がまずは単純な雨についての書とならんことを。
講義は、「哲学・政治著作集」の訳者、市田良彦氏によるアルチュセール「出会いの唯物論の地下水脈」の朗読から開始されました。
20世紀末、当時のソビエトで高まるペレストロイカの緊張とその崩壊の中で、マルクス主義哲学者の立場を捨てたかのように思われたアルチュセールは、しかしそもそも最初から「マルクス主義哲学者」とは異なる、「出会いの唯物論者」であったことが、パリに保管されているアルチュセールの遺稿を直に読みとおした市田氏の口から語られます。エピクロスに遡る出会いの唯物論=偶然性唯物論は、世界の始原にプラトン的イデア、つまり起源=目的を設定することの否定から開始され、その非目的論的思考はハイデガーにも近接します。
芸術表現の立場から興味深いのは、アルチュセールの演劇論、1962年の「ピッコロ、ベルトラッチー、ブレヒト」に見出せる思考です。一般に劇場で観客と舞台上の役者は非対称であり、舞台の(充実した)ドラマを観客が一方的に受け止めるような構造を持ちます。
しかしアルチュセールはむしろ舞台上の空虚に着目し、この空虚こそが固定的構造からの「クリナメン」、つまり偏りの運動を引き起こすと書きます。ごく端的に、この劇場は美術館に、そして展覧会場、更には作品個々へと敷衍できるでしょう。このような「装置」に生まれる様々な力、権力関係と教育・啓蒙、その否定と拭えない観客との関係。アルチュセールの弟子であったランシエールの教育論、ジャコトに見る教師と生徒の関係から、市田氏はニコラ・ブリオーとランシエールの論争に触れてゆきます。ブリオーに対するランシエールの批判をあくまで正当なものだとする市田氏は、しかしランシエールの立論にブリオーとも重なる問題点を指摘します。
このような講義の中でとくに「知る」とは何かが、ソクラテスやプラトン、ジャコトとランシエールを援用して語られます。その姿は、いわば「教えを乞うてきた美術家」に対し「自分は「教え」はしないのだ、自分のすることを「勝ってに」使用せよと、暗に我々に語るようでした。講義の会場を一方的な教える-教わる空間から、いつしか参加者全体を、知識の伝授ではなく知ることの術(すべ)へと導く様子は、私たちを受講者という立場から吊り上げるようでもありました。この意味で、市田氏の講義は「展覧会」がイメージしうる、ある型(フォーム)を検討しつつ、同時にパフォーマティブに実演してみせるという二重の在り方をしていたようにも思えました。