高橋悠治氏×三松幸雄氏 《自然について ― ΠΕΡΙΦΥΣΕΩΣ》概要
「エピクロスの空き地」展はここまで三回の講義を開催してきましたが、展覧会期間中の7月1日に行われた最終回は「講義」ではなく“講義・対話・問答など”とされています。「一方から一方へ情報を与える」という形に対する疑義は第一回の市田良彦氏《ルイ・アルチュセール「偶然性唯物論」講義》でもジャコトなどを例として提出されていましたが、三松幸雄氏によって開始された今回の試みは冒頭から“対話・問答”の形式が重視されていました。高橋悠治氏が作曲した、柿本人麻呂の挽歌をモチーフとした『なびかひ』について、手書きの楽譜と再生された演奏を見比べ/聞き比べ、その印象を早速聴衆に尋ねる三松氏は、自らの問いと聴衆の声を素材に、高橋氏の応答を待ち、その応答に更に対話を重ねて行きます。 人麻呂の詠む「とぶとり」を、音階を駆け上がっていく音符の連なりやそれを演奏する鍵盤上の手の動きに重ね合わせて作られた『なびかひ』。なれ合うこともなければ攻撃的でもない高橋氏の語りは、高橋氏と三松氏、そして個々の聴衆の間に適切な距離の感覚を形成し、会場に集った個々が見事に再配置されていくようなものでした。その中には“対話・問答”という形式のリミットに触れる場面もありました。例えば高橋氏は、三味線を習ったときに師匠に言われた「習う者は質問をしてはいけない」という教えを語ります。段階の低いものが発した問いは、その低さに縛られていて、それに答えてしまうと答えもまた低い段階に縛られたものとなる。また、「わかってしまう」ことの限界も語られます。このように、ひとつひとつの問いと応答が、その場を常に差異化し非特権化しながら時間が進行します。 このような“対話・問答”がありながら、しかし同時に語られるべき“講義”も、三松氏によって見事に講じられました。自然から人工物を作る製作(ポイエーシス)を漢字の発生から見てとり、技術・芸術・非芸術という三相に切り分け、いくつかの具体例も示しながら、そこにおけるエピクロス/ルクレティウスのクリナメンの意味を探ります。とくに、原子とその偏りを、実態的なものではなく物事の切断面として語った箇所は刺激的でした。豆腐の切口を示しながら、「原子は大きさ(という概念)をもつが、それは部分を持たない極小(境界)と考えねばならない」とし、境界概念=水滴の分離などをひきつつ、自然のうちに起こる外への逸れ/外のうちへの移行からそのつど離散的な飛躍(原-偶然)を抽出する様は、クリナメンの理解として必須なものでした。 参加作家の「家族を作る」ことと作品制作あるいはコミュニティの制作についての問いかけ、あるいは会場からの質問への高橋氏の応答は、軽味をもちながらどこかここでない場へつれていかれるような、不思議なものでした。「(コンサートを)聴きにこないようなひと、(展覧会を)見にこないひとになにかしらのインパクトを残すようにする」、あるいは「皆で楽しむのでなく一人一人で楽しむこと」といった発話は、今回の展覧会に参加した作家・観客のみならず、美術・芸術の生産者・媒介者の多くにとって示唆的であったように思います。