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ディスクガイド+ 高橋悠治の音楽 事例

講演者の一人である高橋悠治氏の音楽作品について、録音があるものを中心に書くことを依頼された。  そこで、「エピクロスの空き地」展にとって、ひとつの導きの糸となるに違いない「クリナメン」あるいは「パレンクリシス」――原子の軌道の「逸れ」――という、実在に宿る不確かな運動のありように、何らかの仕方で共鳴する作品を取りあげることを考えた。  しかし、この極小の次元に起こる転位とまったく無縁の出来事は、この宇宙のどこにも存在しない、というのが『自然について』におけるエピクロスのおしえでもあるのだろう。  原子の逸れは、〈自らに起源をもつこと〉(アウタルケイア)のもっとも原初的な働き。その最大の果実は「自由」(エレウテリア)と呼ばれている[ヴァチカン箴言集・断片77]。

                    ⁂ 「時計草」(Passiflora, 1983-2009)  簡潔な線をえがく旋律。単純な拍で寄り添う和音のコラージュが、色彩をかすかに変化させる。  シチズン時計のコマーシャルのために30秒枠で書かれ、サティ風につくられたという可憐な小曲。  当初はコンサートのアンコールで弾くことを想定してGood Night という題名がつけられていた。その後、矢野顕子が歌詞をつけて録音したこともあり、2009年に「時計草」と改題された。  旋律の冒頭をかたちづくる五つの音を半音下げると、坂本龍一による「戦場のメリークリスマス」主題曲の出だしとほぼ同じかたちをしている。双方とも1983年に書かれているので、これは一種の引喩だろうか、と作曲者にかつて尋ねたことがあるが、指摘されるまで気づかなかったという。  もっとも、同じ時期のポピュラー音楽では、この旋律の冒頭と似たところのある、2度と完全4度(または5度、ときに3度)の音程からなるアルペジオ風の短い音型が、さまざまな曲で流用されていたように思われる。それらは、当時の消費文化の中で記号と化した都会的なセンチメントを表出するシミュラークルのように響いていた――これは筆者が子どもの頃の記憶を手がかりとした判断ではあるが――そうであれば、この曲はマスメディアの広告用に書かれているのだから、同時代に流通する泡沫のような情念定型を直感的にすくいとり、曲の素材とすることは、自然なことであり、巧みな措置でもあるだろう。  ピアノ・ソロによる演奏が、波多野睦美(歌)・高橋悠治『ゆめのよる』(Avex Classics, 2009年)に収録されている。簡単な曲なので、楽器などに馴染んでいるひとは、公開されている楽譜をたよりに自分で演奏してみて、そのあとで作曲者の演奏と比べたりすれば、何か発見があるかもしれない。同アルバムに収録されたこの曲の演奏はインターネット上でも試聴できる。  波多野睦美との共作アルバムは他に『猫の歌』(Avex Classics, 2011年)があり、栃尾克樹(バリトン・サクソフォン)を交えた三者による『風ぐるま』(Pau Records, 2014年)もある。 「高橋悠治 楽譜/keyboard 鍵盤」 『ゆめのよる』 『猫の歌』 『風ぐるま』                     ⁂

「自然について──エピクロスのおしえ」(1975)、「クリマトーガニ」(Krima Togani, 1979)

古代ギリシアの時代に著わされた哲学的著作には、「自然について」(ペリ・ピュセオース)という一般的な標題が付されることがあった。エピクロスにも同題の主著があり、約200年前にそのパピルスが発見されているが、現在までに復元された内容はごくわずかな部分にとどまる。とはいえ、その「小摘要」にあたる『ヘロドトス宛書簡』は全体が伝えられており、今日でも広く読まれている。

「自然について――エピクロスのおしえ」は、児童合唱と楽器のための音楽。子どもたちはエピクロスの自然哲学を要約した五つのテクストを歌い、簡単な楽器も演奏する。歌詞は、おそらく児童向けに、すべてひらがなで書かれている。

 合唱は指揮者が主導するのではなく、子どもたち自身によって進められる。また、いわゆる近代西洋音楽の制度の中で標準化された発声法ではなく、個々の地声で、自然な呼吸に即して歌うことが求められている。「ここからうまれる粒子のあらい声の間の微妙な摩擦が、いきいきしたうつくしさをもたらし、完全に声のとけあった「飼いならされた」ひびきと区別する。これは、エピクロスの偏りと反撥の原理そのものだ。」[「自然について=エピクロスのおしえ」〔初出1976年〕、『きっかけの音楽』(みすず書房、2008年)所収、217-18頁]

自分の声と、ともに歌う周囲の声を同時にききながら、互いに調整しあい、音楽を協働で自発的につくりあげていくこと。そのために、歌い手たちは規律と自然さをともに実現していかねばならない。 中規模以上の編成において集団の自律的な実践をうながすこうした試みは、同時期の作品、たとえば「非楽之楽」(語りとオーケストラ、1974年)や、より後年に書かれた「糸の歯車」(筝とオーケストラ、1990年)、「夜、雨、寒さ」(混声合唱、2006年)を経て、比較的近作にあたる「大阪1694年」(オーケストラ、2010年)などでも行われている。

作曲の過程では、音とリズムの運動図式を決めるに際して、数学者ルネ・トムが作成した形態論(モルフォロジー)のモデルが参照されている。それらは、生命体の形態が不連続的に遷移する過程を類型化し、簡単な座標空間内で定性的に表現したものである[René Thom, Stabilité structurelle et morphogénèse (W.A. Benjamin, 1972). 彌永昌吉宇敷重広訳『構造安定性と形態形成』(岩波書店、1980年)]。 思弁と類比を活用するカタストロフィ理論において、それらのモデルは生物の進化過程だけでなく、ヒトの活動や社会現象にまで適用される。他方で、音階の組織を決めるに際しては、子どもの地声と笛がもつ音域の範囲内から、乱数列を用いて音高の集合が偶然にとりだされ、置換群による変換を施したうえで導きだされている。

 作曲を形式化するこれらの数学的な操作は、しかし、1950-60年代の芸術音楽で追求された作曲技法とは異なり、数理科学に特有の精密性を制作の方法や作品の組成において実現しようとしたものではない。むしろそれは、特殊技能と化しやすい音楽の実践を、専門主義の弊に陥らせず、公開性を強め、共有財産とするための一助となりうる、と考えられていた。

 この曲を解説した当時の文章によれば、

「数学やコンピュータのよい面は、操作が非個人主義的なもの、公然のもの、だれでも追跡できる過程としてプログラム化されるところにある。現在ではテクノクラート的発想におちこみがちなコンピュータ作曲法をとらない時でも、この教訓は生かされなければならない。

 操作過程の公開というプログラムとテクノクラシーは、もともと矛盾したものなのだ。それがコンピュータを人間の代用と考え、芸術創作上の面の改革だけを見て、芸術にかかわる人間の組織を、また流通機構をいままでのまま無批判にうけいれるからではないか。」[「自然について」、前掲『きっかけの音楽』223頁]

 演奏は、『日本合唱名曲シリーズ〈児童合唱編〉7』(キングレコード、1990年)で聴くことができる。ただ、おそらく専門の児童合唱団による演奏ということもあり、この録音での歌唱は、同曲に求められている「地声」というにはいささか均質的に整いすぎており、洗練された「美しい」響きからそれほど外れていないように筆者には感じられた。ごく普通に見かける子どもの集団から生まれる地声の動きは、はるかに雑多で変化に富んでいる。そこに自発的な規律を生じさせることで、まだ耳にしたことがない響きの、少なくとも予感のようなものが、この曲に求められているのではないだろうか。

 慣例と化した発声法のように、所与の文化を通して訓練された固い態勢をときほぐすことの難しさは、もちろん音楽にかぎったことではないだろう。

 この曲と近い時期に書かれた「クリマトーガニ」(混声合唱、1979年)の、アンサンブル・サモスココスによる最近の演奏の録音を聴いてみると、きわめて瑞々しく彩り豊かに流れていく声の音楽に接することができる。

楽譜を使う曲でも、実際の演奏は楽譜の指示に従うだけでつくられるわけではない。アンサンブル・サモスココスは女声合唱のグループだが、「クリマトーガニ」の楽譜は混声合唱を想定している。「自然について――エピクロスのおしえ」も、演奏の仕方や歌い方、楽譜の読み方などによって、かなり違った姿になるのかもしれない。

「自然について──エピクロスのおしえ」、ひばり児童合唱団、田中信昭[指揮]『日本合唱名曲シリーズ〈児童合唱編〉7』(キングレコード、1990年)

                    ⁂ 「メタテーシス 1/2」(Metatheses 1/2, 1968)  ヤニス・クセナキスと近いところで仕事をしていた時期の作品を聴き、楽譜やテクストを見ると、数学の概念が曲の構造や制作過程をある範囲で緻密に規定しているらしいことがわかる。だが、それらは精密科学の知見を単に応用したものではないし、科学理論を芸術の流儀で美的に再現した標本やスペクタクルをつくることに関心があったわけでもないだろう。何が重要だったのか?  1970年のインタビューでは次のように語られている。 「現代数学の方法を適用して音楽を作曲するということ以前にある問題は、たとえばクセナキスの場合を考えてみるとよくわかるんだけど、彼の場合、〔…〕確率理論によって音楽を作るという面が強調されているわけです。だけど、彼の仕事のなかで一番重要なことは、そういう具体的な手続きの問題じゃなくてまず与えらえた条件というか、音楽において既成の価値体系を拒否することね。与えられた条件のなかで創造するんじゃなくて、与えられた条件を検討することから、まずはじめて、自分で新しい条件をつくりだすことね。 〔…〕与えられたものを、すべて検討する。出された問題に答えることによって操られることを拒否するということ。たとえば、彼の「アコリプシス」という作品の出発点は、音楽をつくる上での最小の条件とはなにかというところからはじめる。〔…〕クセナキスは、音楽とはなにかという根本的な質問をたて、公理主義的な方法を使って、音楽の根源的な構造を解明しようとしたのは、彼がはじめてだということ。」[秋山邦晴(聞き手)「高橋悠治に訊く」『音楽芸術』28巻・1号(1970年1月)、59頁]  数理を芸術に応用したり、芸術で「表現」することが問題になっていたのではない。むしろ、与条件を括弧に入れ、事柄の諸前提をつぶさに調べること――そこではもちろん「芸術」や「音楽」も問われうる事柄となる――そうして根本的な問いを立て、場合によっては条件を新たにつくりだすこと。このまだ知られていない「新しい」条件は、私たちが棲み込んでいる歴史的‐社会的な文脈にとって突発的に出現する何かであるだろうし、他方の「根本的な」問いの方は、おそらくきわめて〈古い〉地層に連なるもの、それでいて不断に忘却されつづける最も近しい事柄――たとえば存在、真理、あるいは道――にかかわっているのかもしれない。  ここでの数学は、既存の理解可能性の地平から逸せられる事象へと合理的な道を通って近づくための「知性の戦術」でもある。「それは変化と運動の数学、計画と賭の数学、秩序と無秩序、連続と切断をあつかう行動の指針である。」[「知の戦略――クセナキスの場合」、『音楽のおしえ』(晶文社、1976年)、90頁] そして音楽の実践もまた、同時代のテクノロジーや先端的な学の知見を取り込むだけのものではなかったし、与えられた条件としての「芸術界 art world」や各種の「界=壇 champs」に包摂されることで活動の場を見出していく、いわば水平方向へと通常化された実践や言語ゲームへの参入とも決定的に異なっていた。生政治時代の「グローバルアート」界の傍らにあって、このかつての「現代」音楽を反時代的あるいは錯時的に捉えなおすきっかけのいくつかはこのあたりにあるように思われる。  ピアノのための「メタテーシス 1」と、ギターのための「メタテーシス 2」は、それぞれ1968年に完成している。いずれも、この時期に書かれた作品のある特徴、たとえば音楽の「方法」や「システム」、「構造」などへの関心がよく現れている(それらはやがて、歴史主義的なまなざしのもとで、この時代に固有のエピソードのように追想されることになるだろう)。  前者は、作曲家アール・ブラウンの監修によるContemporary Sound Series, vol. 3 (1970) に収録されている。1978年以降は廃盤のため入手困難となっていたが、2010年にWERGOレーベルからCDで再版された。  演奏時間は6分に満たない曲だが、そのコンパクトにまとめられた楽曲形式とあいまって、非常に強い凝集性と、バガテル風の自在な軽みを感じさせる。冒頭では、極端な高/低の音域に分離した層の内部で、音の粒子がジグザグに飛躍する軌跡を描きだすが、ほどなく中音域に偏って絡みあい始める。この音域間の際だった落差は、異なる音事象の分布のありようがこの曲のプロットを織りあげていくことを予告しているようである。事実、粗密や強弱などの量的な対比や、動静のあいだで急激に変位する音塊の劇的な運動などが、曲の中で起こる出来事の輪郭を判明に示しつづけるだろう。それらのさまざまな音事象は、集中力を孕みながら、起伏の多い断片的な連鎖をかたちづくっていくが、曲の後半にいたると、溜め込まれた力が閾値を超えるように、音楽は不意に破裂と錯乱の場を横切っていく。  こうした書法は、クセナキス《ヘルマ》(Herma, 1960/61)という基礎から生い育ったものであることを想起させるかもしれない。だが、音の乱雲の激しく素速い変化や、極度に鋭く飛び散るガラスのような響きは、音楽のラディカリズムを一層限界にまで押し進めているとの印象を与える。同時に、しかし、それはもはやこれ以上先に進むことができないのではないかという探究の袋小路を、漠とながら垣間見せてもいる。  メタテーシスmetathesisとは、狭義には「音位転換」とも訳される言語現象を指している。「あらたし」が「あたらし」になるのがその例である。だが、「メタテーシス 1」に付されたテクストを見ると、化学的に結合した分子間の組み換えを起こす触媒反応などへの関心もあったことがわかる。拙訳で引用しておこう。 「Metathesis - 違うように置くこと。転置〔転移・入れ替わりtransposition〕。条件の変化または反転。言葉のなかの文字や音が入れ替わること。二つの分子間での、原子または原子群の交換、他の仕方に取って替えることのできない分子構造、複分解(double decomposition)。  曲の構造は、次数6と位数24の置換群の部分群に基づいており、それらがピアノによる音事象のさまざまな因子に適用される。たとえば、密度、持続、動的形式、音の形式など(これらのすべては時間外構造である)。時間構造は確率的である。」  ギターのための「メタテーシス 2」は、笹久保伸の演奏によるギター作品集のCDで聴くことができる。この曲の演奏は、小ぶりな木製の体軀とやわらかいガット弦からなるギターという楽器の特性上、音が極端な動きに振れていく場合でも、ピアノのための「メタテーシス 1」よりはるかに穏やかな印象を与える。指とそれがじかに触れる弦とのあわいから、質朴な姿をした音の群れが手作業で立ちあがってくる。「上がる、下がる、広がるなど、音の運動パターンと強弱変化の組み合わせを構成要素とする構造を作り、その要素を入れ替えていく。〔…〕当時は置換群論や、細部を決めるためには確率論や統計学の手法を使っていた。」[高橋悠治「プログラムノート」、同CDライナーノーツ] Earle Brown, Yuji Takahashi, New Music for Piano(s) - Contemporary Sound Series, vol. 3 (1970; WERGO, 2000) 笹久保伸『道行く人よ、道はない 高橋悠治ギター作品集』(ALM RECORDS, 2010)

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