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郡司ペギオ幸夫氏《因果反転を可能とする地平》講義を振り返って


ふつうは意識(心)あるいは人工生命を考える際、「個体」と「集合=群れ」の差異(区別)をどう捉えるかが一般的かつ大きな問題となりますが、郡司氏は「部分」と「全体」とを入れ替えてしまうという(通常の論理では考え難い)モデルを構想しており、前回のレクチャーでは「ベイズ推定/逆ベイズ推定」という方程式を主軸に、「帰結の反転」がいくつもの事例とともに検証されました。厳密には単純な入れ替え(反転)というより、外部性が異物として残り、差異を絶え間なく生成し続けるようなモデルといえますが(「部分」と「全体」が共約可能な同型対応と見なすのであれば、物理主義のような一元論に陥ります)。 郡司氏は身体という纏まりを想定するとき、単純に「一つの神経細胞と神経細胞の群れ」の関係を「個体と群衆」との関係に置きかえるのではなく、そうした前提となりうるであろう「個体(あるいは群れ)」のフレームを脱構築し、「肉体的身体ー物体ーモノー外部ー客観」と「経験的身体ーイメージーコトー内部ー主観」とがオーバーラップしたりズレが生じたりする事態を詳細に観察するところから出発します。このような手続きを踏まえることが、哲学に関心がある者たちを魅了するのではないでしょうか。 こうした思考の一つの事例として、 DuchampのThe Creative Actの「芸術係数」が触れられました。 詳細には踏み込みませんでしたが、「芸術係数」はかなり単純化すると、 「外部(=観測者、鑑賞者)」の「眼差し(批評)」が「内部(作品、作者)」の「質(創造性、美的価値)」の完成に参与するという指数で、 「鑑賞者による作品の翻訳(変形・異化)」と「作者の意図」との差を表した指数ともいえますが、 実情は、芸術係数が高ければ、 生産物は生産物の外部(作品それ自体よりも作品を作品と名指している仕組みや社会の蠢き)に寄り添い、 芸術係数が低ければ、 生産物は内部(作品それ自体、あるいは作者=天才の分身)に閉じこもり、 独創性という幻想に収斂するという解釈に落ち着いているのではないでしょうか。 前者のような「歴史主義的な回収(ある一つの作品は~派などと呼ばれるものの一部に過ぎない)=群れ」と、 後者のような「代えがたい作品=個体」という関係は、 (つまり全体と部分、あるいは外部と内部という関係は)、 アートワールドのような場所では都合よく相互依存的に消費されていますが、ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」などは、 この外部とのネットワークのみを純粋に抽出しようと目論みます。 しかし、そもそも「外部性」とは、理解不能な圧倒的な他者か、 着地できない「穴」のような場所として想定されるはずではないでしょうか。 ここで郡司氏が指摘した「芸術係数ゼロ」というモデルが、いかなるものかを思考したくなる衝動にもかられます。一つに、アピチャッポン・ウィーラセータクンの映画作品のようなものが考えられます。東京都写真美術館によるアピチャッポン展の関連イベントとして開かれたシンポジウムで、彼が四方田犬彦氏などとの会話の最中に、「国民映画というものは存在しない。自分のために作品をつくるんだ」と語っていましたが、そのようなパーソナルな政治性が頭をよぎりました。アピチャッポンの作品が芸術係数ゼロかというと、そんなことは全くありませんが、intimateといえるような彼のモチーフは、それに値するように思えます。アピチャッポンは、自身と親密な関係にある者たちを写しながら、同時に、不気味に作用する力(=政治、歴史)も描き出します。力(権力)の外側で、消え去っていく過去の記憶や物語の断片の結び目に、彼の身体(あるいは映像作品)は、亡霊(=メディウム)として現れるかのようです。 映画はもともと、バラバラであるはずの画像群を、一つの作品として統合するという特質を強く保ったメディアであり、ゆえに個人を国家という物語に回収(主体の喪失と移行)するプロパガンダにも積極的に利用されてきました。エイゼンシュテイン(たとえば《十月》)などは、労働者の群れが一つの塊になる革命のプロジェクトと、映画の組成を重ね合わせた典型ですが、それが良いか悪いかは別として、彼が漢字や俳句(限定的な要素を配置してある情動を喚起する)をモチーフに繰り広げたモンタージュ論は、「接触」や「出会い」を考察する興味深いアイディアに溢れています。 ✳︎ゴダール研究で知られる平倉圭氏は、ゴダールの映画における「個体」と「群れ」との関係を、群生生物における「局所的なコミュニケーション」と「全体としての運動パターン」との関係に引き合わせながら、バラバラであるはずの情報が重なり合う「周波数の同期(=干渉、モアレ)」という側面に着目しています。 また、一つ前に行われた沢山遼氏のレクチャーでは、ロザリンド・クラウスからスタンリー・カヴェルの映画論を通じ、複合的要素を持ったメディウム(記憶、保存の形式)として映画(映像作品)が分析されました。いわばメディウムの異種交配的側面で、そこではイメージは単一ではなく、同一のものが差異を伴った無数のイメージ群として現れます。さらに、レオ・スタインバーグの批評においては、「出来事(諸要素の結節点)としての絵画」という捉え方が、単純にグリーンバーグ的な「垂直性」に対抗する意味での「水平性」という地平を超え、「他」の要素との交換・運動(あるいは作品と作品外との出会い)を含む画期的なものであったという指摘がありました。ここにもまた、区別(差異)や混同とのあいだに媒介として立ち上がる「身体」を構想することはできますが、それについてのコメントは、また別の機会に譲りたいと思います。

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