第3回講義に向けて_参考文献その1
松野孝一郎、郡司ペギオ幸夫、オットー・E・レスラー「内部観測」(青土社、1997年) 郡司ペギオ幸夫氏による講義《因果反転を可能とする地平》 http://mniizeki.wixsite.com/epicurus/event の参考文献です。 例えば私には子供がいますが、その子供を預けている「学童」と呼ばれる放課後サークルに、子供を迎えにいったときのことを想像しましょう。
日中、フルタイムの仕事をしている私は普段、学童の活動になかなか参加することができず、迎えに行く事も稀で、子供たちは私のことをそれほど知りません。学童の扉をあけると、そこには子ども達の多様な振る舞いがみてとれます。数人で遊ぶもの、宿題をするもの、ひとりで本を読む者、ケンカをするもの。しかし、彼らは大人が誰かを迎えに来ること自体には慣れていて、しかし今来た私のことはたいして知らないので、そのまま各々の行動を続けます。私の子供が私に気づくまで、私は学童の普段の様子を観察することができます。これをひとまず「外部観測」としましょう。
対して、その学童をしばらく休んでいた私の子供がひさしぶりに学童へ行ったとします。扉を開けると、学童で遊んでいた子どもたちの数人は、「○○くんが来た」といって私の子供のところにやってきて、休んでいた理由を尋ねます。そのことで、彼らが遊んでいた場所が空白になり、そこへ直ちに上級生の「部屋バスケ」がなだれ込みます。「部屋バスケ」の乱暴さに内心怒っていた女子のグループが決然と立ち上がり、彼らに挑んでいきます。このように、学童の内部メンバーである私の子供は、学童の中を観察しようとすると、その行為自体が学童に変化を与えていきます。私の子供は自分の属する学童を「静的に」見ることはできません。
これを「内部観測」であるとして、しかし、そもそも、私は学童を「静的に」見ていたでしょうか?子供たちの数人は大きな動きはみせなくても「誰かのお父さんが来た」と知って、少し振る舞いを変えていないでしょうか(トランプで「ズル」をしようとしていたのを、ちょっとためらうとか)。学童の内部メンバーではなくとも私は地域の内部メンバーであり、学童のメンバーも地域の内部メンバーだったのですから。 ものごとを対象化(外部化)して扱う、あるいは既に閉じて完結し終えた事象の記録をスタティックに扱うのではなく、「内部観測」とは今起きている事象、そして「まだ起きていない事象」を扱うための重要な視点です。“行為者のもたらす行為は何であれ、その現在形のにおいて他の行為者に対して新たな驚きを与える信号として作用する”(本書17頁、松野孝一郎「内からの眺め」)。
言うまでもなく、このような「観測」の最も有名な例は量子力学のそれですが「内部観測」は、そのような事象が量子のような「小さな世界」だけでのみ表れるのではないことを前提します。この世界のすべての事象は生成の途中にあります。記録され終えた事象の時間は既に同期を終えていますが、いまだ成されていない経験の生成の時間は非同期です。
ここに未だ非同期な「まだ起きていない事象」を記述するアポリアがあります。時間と空間を先験的に前提するカント的な思考ではなく、時間と空間を生み出す物質過程。
郡司ペギオ幸夫氏の講義を聴くにあたり、まずはこの松野孝一郎による「内部観測」という概念を踏まえなければなりません。まったく初学者向けの本ではなく、読み進めるのが「簡単」なものではありませんが、そもそも「内部観測」とは、全ての人がその前では初学者として振る舞うことが求められるのであって、従って原理的に「初学者向け」のものはありえません。